歴史史実と物語
 南京の大虐殺や従軍慰安婦の話が既に60年たった今ですら外交問題の重要事項になっている。先日も名古屋市長が南京大虐殺があったかどうか分からないからきちんと議論をしよう、という主旨の発言があったとのこと。

 日中韓共同で歴史認識問題を共同研究する動きもあるようですが、決して解決できないでしょう。問題が「事実」はなくて、政治的な解釈や宣伝もありますがなによりも市民が感じている物語性が重要視されるからです。

 世他にも多くの死者や悲劇がある中、この日本の蛮行だけ取り上げるのはどうかという指摘はあると思うが、この実際に南京の大虐殺があったのか、この一点に問題をしぼったとしても事実は決して浮かび上がってこない。祖父から聞いていた戦争の話では、日本に帰るときには多くの街の人々から日本に帰国しないように懇願されたと言うし、大学時代に様々な文献を読めば、戦争に近年のグアンタナモ基地の例が示しているように、第二次戦時中に不道徳的な行為が無いはずも無く、多くの中国の方が日本軍によって理不尽な扱いを受けたことだろうが、数十万人もの大虐殺は無かったのではと考えさせられてしまう。また中国南京を訪れ、記念館で中国側の証拠物件をたくさん目にすれば30万(いつの間にか100万から減っていたが)の尊い犠牲者が出たという事実が頭に入る。

 私には事実は分からない。けれど、人の心も(浅はかな)知識なんて簡単に左右されるもので、自分の属する集団が提供してくれる心地よい言葉を信じてしまうものだと思う。これこそ事実関係ではなくて物語が扱う分野になる。


「本当の戦争の話をしよう」ティム・オブライエン 村上春樹=訳 にこんな一節があったので紹介したい。

“時に記憶が物語へと導かれていく。そのようにして記憶は不滅のものとなる。それが物語というものの目的なのだ。物語というのは夜更けの時刻のためのものだ。どのようにして過去の自分がこうしてここにいる今の自分につながっているのかわからなくなってしまうような暗い時刻のための。物語というのは永遠という時間のためのものだ。記憶が消滅してしまい、物語のほかにはもう何も思い出せない時間のための。”


“でも、いいですか。実はこの話だってやはり作り事なのだ。私は君に私の感じたことを感じてほしいのだ。私は君に知ってほしいのだ。お話の真実性は実際に起こったことの真実性より、もっと真実である場合があるということを。”



 人は事実ではなく、物語を信じたいのだ。それは中国人であろうが、韓国人であろうが日本人であろうが関係なく人間が求める本質である。

 人が信じている物語(宗教を含む)を否定することは衝突を大きくするだけで解決しない。従って数年で日中韓の歴史認識問題が解決されることは決してない。

 ただし、多くの時間が経ちそれこそ物語の作者すら忘れられるころになって、物語は変容して行く。その時代の人々の物語への印象も変わっていく。僕らは歴史問題という物語の内容について討論すべきではなく、物語を読む子供達のためをどう物語を越えて友好関係を作れるように人と人と結びつけて行くかを考えていくべきだと思うのだ。

 悲しいことに、この問題について論じることも無駄なのかもしれない。事実関係(たった一人も殺害していないとは言えないでしょうし、それこそ、○○○○人が虐殺されたと)証明するのは両国とも不可能でしょう。30万の犠牲者が 仮に1万に減ったからと言ってもその悲劇への国民感情は変わりません。この解決出来ない問題に対して、敗戦国ながら日本の歴史事実を証明したい意地も心も理解できるし、一方中国の方の心を尊重したい。どちらも尊重されるべきだと考えています。(玉虫色で申し訳ないですが、解決出来ない問題という立場です。) 純粋にこれらの歴史認識問題を乗り越えて、人と人との繋がりによる心の開放によって、両国が繋がることを信じたい。




※※近年の中国映画で「南京!南京!南京!」という映画もあったが、中国側も国民感情を重視しつつも、日本人でも中国よりの人間を登場させる等いろいろと工夫をし始めている。高まってしまった国民感情をどう抑えるか、アメリカも中国もいろいろと四苦八苦しているようだと感じています。
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[2012/02/24 07:38] | 上海日誌 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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