スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[--/--/-- --:--] | スポンサー広告 | page top
イタリアの日誌-45「イタリアの教会/宗教」
s_IMG_5245.jpg


 イタリアではどこの街の中心にも教会(ドゥーモ)があり、目を楽しませてくれます。住み続けると、教会が本当の意味で街の中心にあるのだと実感しています。


 毎時間(15分ごと)聞こえてくる教会の鐘の音色で時間が分かるし、礼拝による毎週のコミュニティ機能のみならず、子供が生まれたら洗礼、結婚したら結婚式、死んでしまったらミサと、一生の生活は教会と共にあります。また、教会前の広場と一体となって様々なイベントが行われ、季節ごとの楽しみがあります。


 また、キリスト教関連のバザーやチャリティーイベントも多くあり、市民活動の拠点にもなっています。これを機会に、ちょっと宗教のことを あえて斜めに構えて考えてみたいと思います。


 金銭的な報酬がなくても、人に対して平安を与え、周りの人を無償で助けるのはなかなか出来ることではありません。素晴らしいことなのですが、異常とも言えます。ということは、宗教は異常をつくりだすための理念なんでしょうか。



 人は一般論(性悪説、生物的ですが)として対価報酬がなければ他の人を助けようなど思わないですよね。誰だって1度や2度なら助けてあげるけど、4度も5度も助けてばかりで自分に得がなかったら、「お前なんか絶交だ、とまで行かなくても関わりたくない!」って思ってしまいますから。
けれど宗教は無償で隣人に愛を捧げようとします。 とすれば、異常なことですよね、
(素晴らしいし、見習いたいですが、あくまで穿った考え方で見たら!)


 でも、考えてみると、宗教に決して対価報酬がない訳ではなくて、死後に天国に連れて行ってもらえるという確かめようのない絶対的な報酬を用意してくれています。だからこそ無償のように働けるんだろか。

 穿った見方を続けると、特に施政側が資金を出さなくても、下々の人間同士で勝手に助け合ってくれて、神の名を使って苦労せず市民の不満を抑えてくれるわけです。こう考えると施政側にとっては、「しめしめ、ラッキー」。彼らに取って宗教は非常に都合のよいシステムを作っているわけです。


 宗教団体は貧民が抑圧されていた時代には必然的に生まれざるを得なかった機構であり、大多数の劣悪な環境にある人間が社会を形成する上で必要な機能を担っていたはずです。最小限の資本で統治する為に、施政側が宗教システムを裏から作り上げたと考えてもおかしくないぐらいです。


 宗教が社会的機構を保管しています。例えば泥棒を捕まえるのに警官をあちこちに配備していたのでは社会的サービスへの費用がかさみすぎてしまいますが、泥棒を減らしてしまった方が効率が良いです。そこで宗教の出番です。私は神を信じないなんて行っている日本人も、おばあちゃんから言われた「お天道様が見ているから、悪い事はしちゃダメだよ」なんて信じていたのではないでしょうか。この感覚は日本人独自のものですが、他の国も多かれ少なかれあります。宗教が社会的なシステムを補う為に作られていたわけですから、犯罪を抑制する教義もちゃんと作られています。イスラム法では盗人は手を切ってしまう戒律もあり、イエメンではほんの30年ぐらいまでしっかり手を切って広場に晒されていました。また、犯罪ではなくて衛生面に関しても、不衛生な豚を食べちゃいけないとすることで、食中毒者を減らし、街の臭気も抑えられるようになった訳です。法律だと反対もありますが、神様の決めてくれた戒律じゃぁ文句の言いようがないですからね。


 このように施政側が社会的サービスを行わなくても、宗教の戒律によって社会の欲求不満を減らすことが出来るが故に、そのシステムの代価として各国の宗教法人は免税されていると考えるとすっきりするのではないでしょうか。税金を払っていないのではなく、施政に変わって社会サービスを行っているわけなのですから、金銭のやりとりのない契約を交わしているといってもいいかもしれません。


 もちろん、宗教を運営する人々が途中で私利私欲に走ったりして不必要な教義を付加することも多いのも事実でコレは問題。キリスト教ですらルター以前には免罪符を売ってた訳ですから。それに十字軍の時から他の利権組織(他宗教)を排他する機構制度を作ってしまったのは頂けません。宗教はその形成過程の中で排他をすることで成り立ってきましたから。別にAの宗教でなくてもBの宗教の天国に行けるならいいや、となってしまったらAの宗教に入る人がいなくなるし、Aの対価報酬であるA天国の価値が下がってしまいます。だからこそBを排除しなければならないわけです。


 Bが排除されることでAの正当性が担保されるという、唯一無二を目指さねばならない機構制度を取らざるを得ないのはビジネスモデルとしては現代にはフィットしません。
(あ、ビジネスモデルと書いてしまいました。たしかにこういうのって、宗教が絡んでいると問題になるので、ビジネスモデルとして仮に考えて見ましょう)



 世界としてはビジネスの前提として、独占は割けなければなりません。そして、その上でA商店とB商店、C商店等を公平に市民に選んでもらう必要があるでしょう。また、顧客の混乱を避ける為に、旅券の行き先は同じことを前提とすべきでしょう。A商店の旅券をかっても、B商店の旅券を買っても同じ場所に旅行出来るのが前提なら、顧客ならAもBも大差ないし、A商店もB商店もその顧客サービスを充実させることに力を注ぐはずです。AもBもCも元々兄弟会社なんだから、仲良くして、どの商店に入っても一緒の旅行先に行くんですと認めて、宣言してもらいたいものです。(移民問題もあって、今はイタリアも宗教には殺伐としていますよね)



 イタリアはそろそろクリスマス気分です。街にはマーケットが開かれ、贈り物やクリスマスカードに人気が高まってきています。日本はどうでしょうか?きっとイタリアよりクリスマスな感じだと思います。
 

 日本は節操がないと言うけれど「いいんです。」節操なくて。エジプトだってクリスマスを祝ったりするんです。こんな風に世界中でそれぞれのお祭りが共有されれば、きっとどの神様だって喜ぶはずです。



良い夜を。
この内容に関係する面白いサイトを発見。ご紹介。


監視カメラは21世紀の“神様”になれるか
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20111202/p1
関連記事
[2011/11/24 21:51] | イタリア | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
<<イタリア日誌46-「外国人わさびを食べる」 | ホーム | 男性の出生率が高くなっている件について>>
コメント
コメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する

トラックバック
トラックバック URL
http://hirokijourney.blog35.fc2.com/tb.php/572-1346f2de
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
| ホーム |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。