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イタリア日誌5【イタリアでのランニング、走る意味についてなんとやら】

 ボローニャでは早朝からランニング。日本であまり走っていなかったのは決して僕が怠けていたのではなくて、街が走る気分にさせてくれなかっただけだ。
 街を、朝、走る、これから動き出す街。清掃車もいない。
 すこしずつ市場が用意を始める。新鮮な光と、ひんやりした空気。街が鼓動を始めている。

 フェラーラでは早朝か19時半頃から城壁沿いを走る。日の傾き加減によって街の西側と東側のどちらを走るかを決める。街の人々は犬を連れて走ったり、緑の絨毯の上で歓談したり、剣道のトレーニングをしたりする。街とランニングコースのその近さが素晴らしい。




 日本はなぜそんな空間がないかって?ないならなぜつくらないかって?

 それは単純に言うと、心地よい空間に対する欲求が薄い、と言わざるえないと思う。これは決して日本人の感受性という問題ではなくて、自分自身が美しいという風景を獲得する欲のようなものが若干少ないのではないだろうか。

 人間は街を作り出すけれど、その街に長くいると、自分の中に街の遺伝子を持つようになる。西洋人が東洋の国に行ってもどうしても自分の国と同じような空間を作らないと落ち着かないのもその性だ。(上海でも、マラガでもジョホールバルでもどこでも西洋人による西洋風の建物があるでしょう)。日本人だってそうだ、ブラジルまで行ってもなんとかして、日本と少しでも近い空間を獲得しようとする。明治時代の和洋折衷もそうだ。西洋を真似したいけれども、自分の中にある日本的美意識の遺伝子がどうも完全なる西洋を具現化させてくれないのだ。


 これは当たり前のことだと思う。だからこそ設計や都市計画者はより良い空間を作るために、常により良い空間の中にいるべきなのだ。

 自分の街がもしも美しくないと思うのならば、市や県の都市計画の担当者の机や仕事場が「どよ~~ん」としているせいのかもしれない。正直言って、たいていの市役所の職場のあの色も光も創造性もない空間ある。彼らの職場空間が心地良くなくては、市民に対して心地よい空間を計画してはもらえなのではないか。

 もしも市役所が快適だと、「市の職員は、人民に尽くせー!税金を払っている市民よりいい職場(空間)で働けるなんて何事だー!海外のいい空間の見学なんて何事だー」なんて、おばちゃん達のお叱りを受けるかも知れない。

 けれど、いい仕事をしてもらうために、つまりより良いランニングコースを整備してもらうために、役所の人にも、もう少しいい空間で働いてもらいたいと思うのは僕だけだろうか。

 いつまでも夜にならない夕暮れのランニング。ついつい、そんなことを考える。


s_IMAG0568.jpg

※カメラから写真の取り込みがうまくいかないのでそのうち写真をアップ
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[2011/07/02 07:23] | イタリア | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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