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イタリア日誌-3【イタリアの女性の悲劇】
「うちの娘に手を出した奴はぶっ殺してしてやる!」


なんて、イタリアのゴッドファーザーは怒鳴っていたのかもしれない。
けれど、そんな危険をものともせず、いつだって、どこだって、イタリア男性からの女性へのアプローチは情熱的だ。


もし、その逆に、女性が男性に声をかけたならば(他の国だってそんな国はあまりないと思うけど、というか、そんな国があったらいいと思うのだけれども)、イタリアの女性像から大きくかけ離れてしまうのではないだろうか。これをアンフェアといっていいのか分からないけれど、女性からのアプローチはどうもイタリアの事情にそぐわないようだ。

 というのもイタリアの主要宗教はキリスト教の中でもカトリックであって、比率は国民の約9割に達する(wikipediaより)。カトリックはプロテスタントに比べると家族像に対しな厳格なイメージを持っている。ごく最近の1970年まで一般国民の離婚が国家法として認められていなかったし、妊娠の中絶も同年まで違法であった。もちろん、結婚しながら別居している状態も多かったのであろうが、イタリアは宗教国家(といっていいかな)として、現代的な個人主義の時代の要望と体制が剥離する状態であったということは否めない。


 僕が問題としたいのは、イタリアの女性の理想的モデルとして聖母マリアが圧倒的な象徴的権威を確立してしまったことだ。聖母マリアは旦那さんと性的な関係を結んでいないのにも関わらず、処女懐胎してイエスを身ごもったとされている。人間的な感覚で率直に言えば「そんなことあるわけないだろ」ということなのだが、この無理難題が、というか人類の法則から外れている理(ことわり)がイタリア人女性に社会的な抑圧として押し付けられている。


つまり、性を否定的な価値とする見方を押し付けられながら、普段に出産奨励的な社会的プレッシャーを受けざるを得なくなったという意味において、イタリア人女性の最大の歴史的悲劇であったとも言えるのでないか。


 もちろん、イタリア人女性にそんなことを真面目に聞いてみても、
「最近は違うのよ。イタリアだって自由よ。」
なんて言われてしまうので、僕の推察は常に外れる。予想が外れるのならついでにイタリア人女性からアプローチがあってもいいものだと思うのだが、それもない。


 イタリア人女性はなぜ美しいか、というのは置いておいて、今日もワインがおいしい。ワインを書きながら文章を書くとどうも情熱的な文章になるのは、きっと男性の性ではなくて、イタリアワインのせいなのだ。

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[2011/06/29 22:42] | イタリア | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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