【旅コラム】狂言とホーミンが何故似るか
 能舞台の構成は見事だ。6m×6mの小さな空間に人が立ち振る舞いによって自在に大きさを変える。そして、能舞台までの橋掛かりは舞台に対して角度をつけて遠近感を増している。そして日本人特有の空間意識がこれを補助する。それは舞台に演者が残っていても、正座すれば存在しないことになり、場所を変えずして場所設定すら変えてしまうという空間意識だ。実空間と観客の頭の中での操作によって能舞台は無限の広がりを持つのだ。見えていても見ないことにするというのは やはり日本人特有の考え方だろう。

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 狂言を見てふと考えた。日本の独特の喉の奥から振るわせる声は屋外舞台に適した音の出し方なのだろう.モンゴルのホーミンという発生方法を考えてほしい。高い空、目の前に広がる草原の超えて愛する人に届く歌だ。このホーミンと日本の能楽で使われる発声方法は似ている。
 つまり、屋内型ではない舞台でこそ発達する考え方なのだろう。もしも日本能楽が屋内舞台やもしくは劇場型の土壌で育ってきたとしたならば現代には違う音が残っていたのではないだろうか。

となれば屋内に閉じ込められた能舞台という国立能劇場は奇妙と言わざるをえない。
屋外で無限の空間を作り出す夏の薪能を見てみたい。


追記:
私は日本人特有の「見て見ぬフリ」の共通認識が、歌舞伎の空間は成立させているように思う。花道に役者が登場しているにも関わらず、舞台の上では物語が進んでいく。歌舞伎特有の「だんまり」も主要役者が物語から離れて舞台に出演していながら、お互いに関係を持たないという不可解な世界を演じる。日本人なら、それが突如と精神世界の中に入ってお互いは見えない存在となっていることが理解出来るが、海外の人は何が起こっているのか理解出来ないのではないだろうか。 この日本特有のルールは他の芸術にも見ることができ、文楽にも3人(しかも一人は顔出し)で人形を遣うけれど、存在しないことになっている。能舞台も5.5m四方の空間しかないが、奥行きをちょっと立ち位置を変化させるだけで、人間の距離が遠く離れていることに「して」しまう。音楽にしろ、西洋はオーケストラを下方に隠してしまうが、日本は三味線も、太夫も舞台に見えている。黒子も日本特有の手法だろう。この「見てみぬフリ=見えないことにする」という、共通認識が日本の舞台の自由度を挙げているのではないだろうか。
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[2009/03/28 14:16] | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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