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[080602] Budapest → Zagreb
 ブタペストに3日も滞在していると街の特徴がより深く理解できる。これまで大体1日か2日の滞在で次の街へと移動していたが、色々と見逃していることもあっただろう。今日気付いたことはマジョール文化の記号性だった。先日軒下の飾りとしてマジョールの文様が設えてあると記載したが、それはバルコニーの持ち出しから、鉄柵、ドアの模様に至るまで見ることができる。

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 このマジョールの記号は草花を単純化した意味を持っていると推測できる。王宮や国会議事堂などの柱や壁面に装飾のための凹凸はあまり使用されていない。代わりに沈んだ強い色をバックに草花の模様が描かれている。

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もちろんこれらの特徴はウィーンや中欧にも見られる。ブタペストも草花を進行する森林文化ないし、草原文化圏に位置するのだろう。


 マジョールの文様はヘ音記号に似ている。柔らかな曲線を描かれている。それに対して砂漠地帯や石窟のある地域における文様は直線的だ。そして山や岩など形がはっきりしたモノを描いているという特徴があるように思う。そう考えると音楽の記号がどこで生まれたのかは知らないが、きっと森林文化圏で生まれたのだと合点してしまう。

 シナゴーグ等を見学後、夕方の電車に乗ってザグレブへ。たまたま同席だったクロアチア人の女性3人と6時間ずっと話していた。クロアチアの人々は大体英語が通じる。
 
 その中で印象深い話があった。その話に入る前に中欧の民族構図のまとめをしてみたい。
(詳しくはネットで見ていただいたほうが良いと思います。下記は私の記憶とメモ書きです。)

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

中欧は狭義の意味でハプスブルグ帝国の勢力圏を指す。1918年に解体するまで現在のチェコ、オーストリア、スロヴェニア、クロアチア、ボスニアヘルツェゴヴィナ、ハンガリー、スロヴァキア、そしてポーランド・ウクライナ・ルーマニア・セルビアの一部がハプスブルグ帝国に加わっていた。多数の民族を抱えながらハプスブルグ家に忠誠を誓うという形で国家が維持されていた。
ハプスブルグ家解体後、多数の国家が誕生した。その中の一つが旧ユーゴスラビアである。旧ユーゴスラビアは他国と異なりセルビア人、スロヴェニア人、クロアチア人その他からなる他民族国家だったという特徴がある。戦時中ナチスドイツ帝国によって占領されていた。それに対して、チトーを中心とするパルチザン部隊(共産党)が1944年にドイツよりほぼ独力でユーゴスラビアを解放した。

チトーはナチスドイツという敵に対して民族を超えた団結を呼びかけた。彼はその後大統領になり1980年まで大統領として国家を導いた。国家の英雄が存在することで旧ユーゴスラビアは民族間の対立が抑えられていた。

しかし、民族間の対立構図は根深いものがある。1918年の初期ユーゴスラヴィアでそれは練られ、第二次世界大戦によって決定的になった。クロアチアにおいてはドイツ占領時に傀儡政府が作り上げられ、クロアチア国内のセルヴィア人などの少数派を虐殺するなどの蛮行が行われている。これがハプスブルグ帝国時代には表面化しなかった民族間の対立を明確化させた。

ヤルタ会談では大国の思惑によって東西の勢力圏が作り上げられていったが、ここでも民族対立を生み出した。
ヤルタ会談における当時のアメリカ大統領の基本的な考え方「一つの民族は一つの国家を持つべき」が民族の独立精神を作り出した。彼は中欧ヨーロッパでこれまで培われてきた連帯性を軽視した。独立精神は多数派の民族が占める土地から少数派を追い出し、その民族だけの国を作る動きを作る。もともと多数の民族が混在しあい、少数派といえど何百年と住み続けている。彼らは慣れ親しんだ土地を捨てどこへ行けばよいというのか。
また、現代においても旧ユーゴスラヴィアの時代には民族間を越えてお互いに婚姻を結び、もはや民族という概念を捨て去った人々も多い。彼らにとっては民族による国境など意味を持たない。

なぜ旧ユーゴスラビアが解体したかといえば、何よりも経済問題だ。
社会主義経済が破綻し、旧東欧諸国が東欧からの離脱を宣言していく。ユーゴの中でも人々の生活が圧迫される中で西欧との結びつきと資本主義を求める動きが起こる。ユーゴの中にも経済格差があり、最も経済的に豊かだったスロヴェニアなどは早々に独立を宣言し、西欧への帰属を実行した。クロアチアも1991年に独立を宣言した。旧ユーゴスラヴィアから独立を阻止するためクロアチアに対して軍を派遣し1992年まで独立戦争が続いた。


日本人が戦争をイメージする時、それは太平洋戦争ではないだろうか。今から65年程前の話だ。正直言ってその戦争を実感する人は少ない。中国や韓国とのわだかまりはあれど、若い世代にとって実体験に基づくものではない。

クロアチアの幾つかの街は、たった16年前戦場だった。(その中にはドヴロブニクも含まれている。)殆んどの国民がこの戦争を体験している。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

クロアチアは現在EUに加盟しようと段階的計画を立てている。知り合ったクロアチア女性の一人は性急過ぎるのではないかと語ってくれた。もちろん経済的や政治的にEUに加盟する利点は分かる。しかし、社会主義から資本主義となり、1991年に独立を果たし、和平合意が成立したのはたった10年前の話だ。政治家は多国間との交易などを推進しようとしているが、人々の対立の気持ちは簡単に消えるものではないという。正直なところ彼女はあまり他民族を良く思ってはいなかった。
日本が単一民族国家というと彼らは驚いていた。そして海に囲まれて国境も明確である。陸続きの中欧とは大違いである。

 戦争は遠い昔の物語ではない。2006年にも中欧に新たな国モンテネグロが誕生した。たった67万人の国だ。それ以上の人口を抱える地域で新たな紛争が起こることは必須だろう。あといくつの国が中欧に誕生するのだろうか。それとも連帯を基本とした中欧の文化をもう一度取り戻し、EUの中でという形かも知れないが連邦制をとることが出来るのだろうか。まだまだ中欧は動くだろう。

 彼女に聞いてみた。たった470万人しかいないクロアチア人のクロアチア語が100年k先も生き残ると思うか、と

彼女は100年後には相互の移民によって国自体すらなくなっているかもと答えた。しっかりと国の在りようを考えているのだ。

 話の最後に、彼女らは両手を両肩に乗せてこう言った。

「まぁ、この国の未来は自分達の世代に懸かっているんだけどね。」と。

重いその荷物は笑顔によって幾分軽いようにも感じられた。前に進む希望が荷物を軽くするのかもしれない。

彼女のいう通りだ。日本も自分達の世代に懸かっている。

クロアチア


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