まちの共通美意識
 南米に来る度に、街で見かける色使いにはいつも驚かされる。太陽光線が強い地域では煉瓦の上に強い原色が塗られるし、ここVillarrica(ヴィジャリカ)は雨も多いので木材の上に少しくすんだ色が風景に馴染むように使われている。

 色がくすんでいるのは、木材(丸太等)に塗っていることもあり、ペンキもはがれやすくて少し木材の下地が出て来ることもあるだろう。色は壁、窓枠やドア、屋根で色が使い分けられ、この色の組み合わせが絶妙なのだ。そして全ての住宅で同じ色などないし、どれも主張しすぎない。日本なら、、、と常に考えてしまうけれども、それは決して外国を贔屓してしまう日本人目線でみているからではなく、この土地での色使いのコンセンサスが住民全体で取れているからだろう。

このコンセンサスは「共通美意識」と言えるのではないか。

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 時代が変わって、壁材が丸太や木板からトタンに変わっている住宅も多い。しかし、トタンの張り方は丸太の様に間隔が太いものは縦方向に、木板のように間隔が短いものは細めの方向に使われ、どちらも色が塗られている。トタンも木材で培われた共通美意識の下で使われているのが分かる。
 屋根もドイツの影響を受けてか、この地方の伝統的な屋根は木片が敷かれていた。だが今では屋根にはトタンが使われるものが多く、一部はトップライトとするためにプラスチックの波板も使われている。

 街を歩いて見て取れる問題は材料ではなく、新しい住宅には共通美意識が見えなくなっているものが増えていることだ。
 世帯分離によってより多くの住宅供給が必要になる中で、徐々にデベロッパーがデザインに拘ること無く建設して来ているようだ。元々建て売り住宅地であっても、このように原型は同じであっても、窓等に少々の変化があり、色彩もそれぞれ別色に塗られて多少の変化があった。住宅団地の全体計画はともかくとして、色彩の調和としてはそんなに悪い印象はなかった。
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しかし、共通美意識を持たないデベロッパーが参入して、計画を進めるとこのように見も蓋もない住宅地もある。

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特に、屋根のトタンをギンギラのままにさせておくとは言語同断と言いたい。
チベットでも同じことを書いていた。)

 別にいいじゃないか、民間の計画なのだから。デザインが格好悪ったら売れないだけではないかと意見もあるかもしれない。または統一感のある街並だとつまらない、色彩なんて個人の自由でいいじゃないかとでいいと意見があるかもしれない。しかし、住宅は個人のものであっても、街並は街の共通財産街は「みんなのもの」という事が資本主義の中ではついつい忘れられがちだと思う。街並と、セットである「まちの共通美意識」を一度殺してしまったら取り返しがつかない。

 ただし、デベロッパーが独自に地元の共通美意識に合致したものを作るのは難しい。そのために、形態規制の条例やら色彩ガイドラインなどをつくって共通美意識の代用品をを用意する必要がある。

 そして、このガイドラインは単に計画者だけではなく、「街の景観のコンセプト」として運営する人間や住民にも伝え続けて、「共通認識」としたい。


これを考えされられたのは、S市駅前再開発の景観計画。

 S市での景観計画は関係各者によって熱意をもって取り組まれ、その通常は縦割りで設計されてしまう駅前広場やブリッジ、建築、造園、照明などのデザインは、全体の景観コンセプトを共有し、相互に調整しあって実現に至った。しかし、数年経って竣工後に見てみると計画になかった屋根が付加されたり(計画要件変更)、広告看板の位置を整理したが看板のための鉄骨を付加されたり(民間テナントとの調整難航か)、美しく見せようというガラス板に看板が張られたり(運営とのコンセンサスの欠如か)と、良くも悪くも想定通りいかないものだと感じさせられた。
 市民から「山の稜線が見えるようになった」という狙い通りの感想を聞くことが出来た一方で、市民にはどのようなコンセプトでこの駅前が開発されたのかが全く伝わっていなかった。「そんなものがあるとは、見たことも聞いたこともない」と、S市民の学生から聞いた。市民にとっては知らぬところで再開発され、これこれ商業テナントが駅前に入ったと言うだけの感想だった。

 デザインのコンセプトが伝わっていないがゆえに、作ったあとの運営が当初の狙い通りに行かないのだろうか。逆に(不可能であったが)運営する人間が責任をもって関わっていないかったから、設計の段階から食い違いがあったとも言えるかもしれない。計画側が伝える手段がないという反省はあるが、そもそも「まちは共有財産」ということを、市民の方からも放棄しているように感じた。(←少々傲慢だけれど、自分自身の街の計画も知らないので、どこでもそうなんでしょう。)自分の街での計画を継続して知る/関わるというのは、市も計画者も地権者も運営者も市民も、街に関わる全ての人の課題になる。


 街の発展のスピードがゆっくりで、規模も小さいうちは「共通美意識」があればいい。しかし変化の激しい現代においては事前に街並のコンセプト、景観へのコンセンサスの形成が求められている。ここチリ、ヴィジャリカも例外ではない。
[2012/08/17 12:27] | 建築・都市コラム | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
1年3ヶ月ぶりに被災地へ その6(気仙沼)
次々と解体されて行く街並。大正時代のレトロな建物が残っていた地区の建物も被災し解体されていっている。1階の屋根まで津波が浸かれば
全壊として認められ、多くの建物が公費解体された。

2011年5月初めで被災しつつも残る歴史的建物
s-気仙沼旧街中

 
 自分にとっても街にとっても大事な歴史的な建築物。けれども、生活の不便さもあるし、改修には新築よりもさらに多くの資金が必要となる場合もある。それを公費(無料)で解体してくれるというなら、お願いしたくなるという気持ちも分かる。ただ、一度壊してしまったら決して蘇ることはない。街の記憶が失われてしまう。それを理解して、多くの困難が待ち構えているにも関わらず、古い建物を残すと決断した所有者を心から尊敬する。歴史的な建物は解体の費用を公費で行うなら、修復に対してこそ援助があって欲しい。

s-気仙沼新街中
この建物は残すと決断したのだろう。応援したい。





こちらは鹿折唐桑駅近くの第十八共徳丸。この近辺は船を運ぶことも難しい為復興公園にしようと取り組まれているとのことだ。こちらは反対意見もあろうが、残すとの決断だ。
2011年5月時に比べ、周辺環境は随分変わっていた。
s-気仙沼船周辺

2011年5月初めの状況
s-気仙沼船旧

現在(2012年8月)
s-気仙沼船新


[2012/08/15 00:51] | 震災復興 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
1年3ヶ月ぶりに被災地へ その5( 志津川の堤防に想う)
解体された志津川エリア
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計画されている高すぎる堤防。波に流されたこの地に再び人が住むのだろうか、この海と街を分断する堤防は一体誰の為に、何を守るために。
s-高すぎる志津川堤防
(まちの人が書いたのだろうか、下部には「堤防高スギ!」上部には8.9mと書いてある)

津波によって破壊され、一部残る堤防
s-志津川過去の堤防
堤防の後ろに見えるのが、上記の建物だから過去とは大きく異なる計画だ。



 高度成長期が終わり、建設•土木工事はかつてほど必要なくなった。けれども、21世紀になろうと、景気は落ち込もうと建設業の会社は多く残り、旧態依然の不必要とも思える公共工事で食いつないでいた。仕事が減る中で既に建設業者が飽和していると誰もが分かりつつも、日本は体制を変えられずにいた。自棄バチの入札が行われる等、建設業の終焉はすぐそこのはずだった。しかし、大震災は起こった。この復興によって、建設業者は仕事を得て、息を吹き返す。延命できたのだ。多くの土木建設業者がいたからこそ、震災直後の素早い復旧が出来た一方、(非常に良いかたは悪いけれど)極論すれば数年後には再編が必要となる業態に栄養を与えたと言っていい。

現在でも名前を変えつつ建築関連だけでも毎年1万人ほどの学生が卒業している。高度成長期の体制が残りをいつまで続けるのか。将来を見据えて復興事業の規模やペースなどを考慮する必要があるだろう。

そんな状況の中、工事の目玉が港湾事業だ。堤防を作ることは建設業者や土木コンサルに多くの資金を提供する。しかもその事業は市民の安全を守る一方で、高すぎる堤防は湊町を殺すこととも言えるかもしれない。街と海とを分断し、海も見えなくなるような高い堤防が必要なのか。日本の都市は災害に耐え切るのではなく、震災後に柔軟に再生出来る都市であるべきだろう。もちろん、土木側からもそのような考え方で討論されている。街の復興の形はケースバイケースではあるけれど、海と生きるという前提のもと、堤防工事のための堤防ではなく、未来のまちの為の堤防を作ってほしいと心から願う。

[2012/08/15 00:16] | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
被災地へ その4( 門脇地区)
天高く積み上げられていた瓦礫は少しずつ少なくなっている。住宅は解体されて、津波で流されたと門脇地区からは海を感じることができる。津波が来る前は海など感じられなかったのに。

雪の降る震災直後のアノ風景を見て、ただただ自分の無力感、脱力感を感じた。
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(門脇地区2011年3月28日)



アノ風景から多くの若手に強い決意を生んだろう。(11年3月時のブログリンク)


門脇小学校
s-門脇小学校


門脇地区は今ではすっかり片付いていた。
s-門脇地区




これでも車の瓦礫も少なくなっている。
s-車積み上げ


日和山よりの景色
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[2012/08/14 23:52] | 震災復興 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
1年3ヶ月ぶりに被災地へ その3


「疲れた、、、」



これが石巻市のまちづくりを支え続けてきた方から始めに出た言葉だった。

街中の住宅や瓦礫の片付けはある程度済んだが、堤防の高さ、幅、形が決められなければ街の復興を始めることができない。現段階では大まかな考えだけではなく、具体的な形を決め、設計図の作成していく必要がある。しかし、様々な意見が噴出する中、堤防の高さや決定することが難しい。これから、どんなに素早く堤防を再建したとしても2年以上は掛かる。商店や住宅の再建はそれからなのだ。それまで待てるだろうか。お店は耐えきれるられるだろうか。

 モノが売れないという。買ってもらう為には、お涙頂戴で被災者(自分自身の)写真を付けて販売するしかないともいう。それでは持続的な経営はな成り立たない。楽しい気持ちで観光客が来て、商品を石巻の作り手から直接買って貰える仕組みがなければ、と前を向いて話してくれた。石巻は最大の被害を受けたが、その分 石巻の名前は全国、海外にも知られるようになった。これは「チャンスでもある」と語気を強めて話してくれた。始めの「疲れた、、」と言う言葉は、復興に向けて頑張っているからこその言葉だった。


かつては自衛隊のお風呂が設置されていた場所。現在は仮設の復興マルシェが設置されていた。
s-復興マルシェ


復興マルシェで食べた石巻やきそば。半熟目玉焼きがのった焼きそばで、麺は出汁でつくっていて、後から石巻焼きそばソースを追加してお好みの味で食す。
s-石巻やきそば


昨年の夏は、ヘドロの影響などによってハエが多く、飲食業を出来る状況ではなかったと聞いた。
話を聞かせてもらった方はこの場所の近くの地権者で、このエリアに石巻でも有名な飲食店を出していたが、苦労した末に国道沿いに仮の店舗を構えた。




復興を進めて行く為にはまずは堤防。マルシェのある地区も川の堤防の形状が決まらないと建物の形も決まらない。川を眺めることができるように堤防と一体化した計画もあるだろう。良くも悪くも堤防から街の復興が始まる。最低でも2年は掛かるとのこと。この期間をまちが耐えきれるか。それが勝負だ。街が死に絶えてしまうのか。街の再編を機として、コンパクトタウンが実現出来るのか。僕は後者に期待したいし、応援している。
[2012/08/14 23:26] | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
1年3ヶ月ぶりに被災地へ その2(仮設住宅)
 震災後、約五万三千戸の仮設住宅が建設された。(資料)
仮設住宅は2年間の設置を目処に建設されているが、震災直後のの想定通り、仮設住宅の入居期間が長期化するだろう。仮設住宅はあくまで仮設であり、人が安心して住まえる十分な空間を提供出来ているわけではない。間口も狭く、前後の仮設住宅との間隔も狭く、コミュニティスペースも少ない。愛着が持てるような個性もなく、住宅性能も決して高くはない。建設前から専門家からは危惧する声も多かったが、震災後は緊急で、被害が甚大かつ広範囲である東日本大震災のため、多くの仮設住宅は以前の形式で進められた。



現在の仮設住宅の状況。
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周辺には私有地とはいえ広い空間があるのに、手続き上、土地の確保がうまく行かなかったのだろうか。
前後の間隔も狭く、十分な居住環境と呼べないだろう。



 膨大な量の仮設住宅があり、自力再建も難しい状況では、規定路線のように仮設住宅→本設住宅(個人の再建にて、もしくは復興公営住宅等)とするのも難しい。こうなったら仮設の更新なども含めて検討して行くべきだろう。



一方、長期化により阪神大震災の仮設住宅の中で起きた孤独死や自殺者が出たことからの経験から、仮設住宅の居住環境を少しでもよくしようという動きが多く見られた。地元産の木材を使い、地元の大工による仮設住宅なども実現された。

その仮設住宅の中では女ノ川で実施された坂茂氏設計の仮設住宅が素晴らしかった。コンテナを使い、積み重ねて前後の間隔を広く設けている。これだけでも十分素晴らしい計画だが、当初の計画では隣の住宅との間に中空ガーデンを作るなど、コミュニティスペースも考えられていたが、実施段階では実現出来なかったようだ。周辺環境も含めて当初の坂茂案が出来ていたら、復興公営住宅と見間違うほどの、仮設住宅が出来ていただろう。また、既にある頑強なコンテナを利用することにより、計画案の発表から半年強で作り上げてしまったスピードにも大きな賞賛を送りたい。

元野球場の中に作られた仮設住宅群。12棟が配置されている。
s-坂スタジアム2


中央にはマーケットや、人が集まれるコミュニティスペースも用意されている。
s-坂3


坂茂氏によるサイト ←こちらの方が詳しい。
[2012/08/14 23:08] | 震災復興 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
1年3ヶ月ぶりに被災地へ その1

以前、2011年3月末にボランティアで泥出しをした老人ホーム。
現在はどうなっているだろう?自分の活動は役に立ったんだろうか?

ふと思い立って1年4ヶ月ぶりに現地を再び訪れた。


当時はこの老人ホームの前の道路は全て閉ざされ、車の上を歩かなければ辿り着くことができなかった。
s-老人ホーム旧道路
s-老人ホーム旧道路2

それが今では「あれ?ここはどこだっけ?」と言うほどスッキリした道路に。
(もちろん 多くの家屋が破壊されたために撤去をやむなくされていたこともあるだろう。)

                 ↓

s-老人ホーム新道路
とても同じ通りとは思えない


外観も
s-老人ホーム旧外観
                 ↓
片付けられて、このとおり。

s-老人ホオーム外観
施設自体は昨年(2011年)の7月には再開したとのことだが、再活動までの過程を知らない僕には見違えるほど綺麗になった。もう、ヘドロの匂いなどしない。

内部は
s-老人ホーム旧全体
こんな状態から
            ↓

s-老人ホーム全体
入所者達が楽しく集まれる憩いの場に

かつてこのテーブルには泥に使った居住者の写真が大切に集められていた。
s-老人ホーム旧写真
            ↓

現在はキッチンカウンターとして再び使われ、活力が戻っていた
s-老人ホーム飯場
当時はキッチンだとは考えることも出来なかった。


被災地では住宅が解体され、片付けられただけで、本当の復興はまだまだ遠い。
けれども、こんな事例もある。少しずつではあるけれども、復興は確かに進んでいる。

ボランティア時のブログ ←写真有り
[2012/08/12 01:35] | 震災復興 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
日本の未来はどうなるか

これからは個人の利益から、社会の利益を考える世代にならないといけない。
けれども世界の体制も意識も、その変化を受け入れられる状況になっていない。

これから、多くの土地が相続の名の下に分割され、古い建物への愛着も敷地への尊敬の念もなく、ただ機械的に解体され分割され更地にされていくことだろう。僕らまちづくりに関わる人間はそれを止める術を持たない。個人によって分割されるか、隣地と合同で経済的に効率のよいマンションが建つだけだ。

 この行為は僕は土地に対して、生前に建物を愛してくれた人に対して申し訳ないと思う。土地も建物も経済的な消費物ではないはずだ。多くの人は良い(と経済的に言われる)マチヅクリを求める。エコな建物を望む。でも本質的な意味での持続可能な都市など望んでいないのだ。悲しいが、これは事実だ。

 その中で僕らは頑張らなくてはいけない。権利者が許容する範囲で、それでも、より人々を幸せにする建物を。そして、これまで日本をつくってくれた先人が満足するものを。

 傲慢さは捨てる。デザインという名の自己表現も捨てる。全ては他人の為にものづくりをする。こんな気持ちでいる設計者は多くいるのに、世界はゴミを吐き出してばかりだ。他人への見栄とか、自分が正しいと思われるための行儀作法とか言う名の、旧時代の遺物。これと僕らの世代は戦わないといけない。

 既存の中で生き続けている人は、気付いていない。自分の頭が固まっていることに。
もしも、意見に相違があるなら対話すればいい、検討すれば良い。それすら、出来ない。

 原発は安全だとして、訓練も出来なかった。現在、自衛隊は訓練しようとしても東京都では反対がありすぎて訓練すら出来ない。イデオロギーの問題ではなくて、人の人命の問題だ。しかし、震災を経ても、彼らの頭は変わらない。自衛隊は忌むべきもので、存在をしてはいけないというのだ。被災地でどんなに活躍してくれたか、知らないのだろうか。まだ、代案があるならいい。しかし、頭を固めて、シュプレヒコールを叫ぶだけだ。

 時代は動いている。変わってはいけない部分もあるし、変わらないといけない部分もある。自分は正しいのか、省みることが必要だ。もちろん僕も含めて全ての人が。

 さて、僕らの未来のまちは、勝手につくられるんじゃない。一人一人が作る。一人一人の意識が変わらない限り、まちは変わらない。未来は決して良くならない。

でも伝わってほしい。もしも、自分に解決策が見つからないのであれば

新しい世代に託す勇気を。





[2012/08/10 23:23] | 世界の未来 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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