借金で日本がなくなるならば
来年度の予算が決定した。日本はあと10年もつのだろうか。国債発行額が169兆5943億円って一体なんだ。自分の給料の何年分、、ってもう、桁が違うな。1年1億稼いだって169万5943年かかる。輪廻を繰り返したって返せない。どうすりゃ良いのか、現実を直視できないほどの金額。
 
 僕ら30才前後は失われた世代、もしくは奪われた世代だ。23歳以下には何も残されていない世界。

教育は悪いし、社会システムは悪いし、頑張っても報われないような体制もある。当然やってられるか!って正当な理由もある。けれどそのなか問題視したいのは、日本がうまく行かないのは他国が悪いからだとする傾向も表れ始めている気がする。これはネットで顕著の動きだと思う。

 これは怖い。例えば職がないのを在日外国人が多いからだと、外国人を排他しようと動きがある。多様な人が都市に来るから経済が発達するのに、自分で首をしめるようになる。外国人からも見放された市場には経済活動はない。お互いの国が自国民以外を閉め出しては 世界が止まる

そして
現状への不満はますます加速する。

予言する。

あと5年以内に極右極左両方台頭して来る。
5年以内に街中で中国の国旗を燃やす日本人が出て来る。5年前中国で日本の国旗を燃やす光景をテレビで見て、なんと野蛮人なのかと思っただろうが、きっとその野蛮人が日本にも現れる。愛国を笠にして。見る人も違和感なく見れているかも知れない。

だから、怖い。自分以外の誰か/何かのせいにするのは。
権力のある人々が何も状況を変えようとしないのは許せない。だがそれに愚痴だけ言っていても仕方がない。変えようとして動くか、状況に対応するかだ。よくなっていってほしいが、現実的なオプションとして後者は準備しておく必要がある。
 日本はつぶれる。なくなる。日本はあと10年後に消滅する前提で行動指針を決めてみたらどうか。こんなに借金を抱えてもまだ、日本人にはそんな危機感はないのだろうか。危機感はあっても逃避しているんじゃないだろうか。60歳なら逃げ切れる。しかし、僕らの世代は逃げ切れない。

厳しいが やるしかない。

がんばんべ。
[2010/12/28 02:07] | 上海日誌 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
上海日誌78-「中国ニュース」
■新車販売に確実な障害、首都もマイカー増加阻止でナンバー発行制限

 道路の渋滞多発に悩む北京市は23日、乗用車を含む小型車(新車であるか中古車であるか不問)の新規登記に必要なナンバープレートの発行を月2万枚、年間で24万枚に制限し、今2010年の登録見込みの3分の1への大幅減を狙う。抽選によって個人向けが88%、法人向けに10%、タクシーなど営業用に2%をそれぞれ割り当てる。同日の千龍網が報じた。
 北京はオークションによっている上海と違い、現在は発行の枚数制限なし。渋滞対策とはいえ、同市での新車販売に影響を与えることは必至。政府や機関、国有企業などの官主導で進めてきた、意図的な買い替えを含む自動車増販策は確実に曲がり角に向かうことになろう。
 北京市の発表によると、1月以降もナンバー取得は無料。ただし個人は、同市戸籍を持つ者か外国籍者(香港・マカオ・台湾籍含む)、在京部隊所属の軍人、市内で正式就業する市外出身者、社会保険を納付する滞在5年以上の暫住証ホルダーらに限られる。
 政府や機関にはこれ以上の保有増加を認めず、渋滞が激しい市街の駐車料金を引き上げて車両の流入を防ぐ。
 直近の同市の自動車保有台数は478万台。2005年末の258万台から急増。市交通委員会の劉小明主任は「東京では200万台から400万台に増えるのに22年間かかったが、北京ではわずか5年」と指摘し、道路網などインフラ整備が追いつかなかったと弁明した。


* ***
これに対して、上海もすぐに表明。上海でのナンバーは異常に値段が高いのだが、より制限するしかない!と。
まじめな話 中国の大都市では発展が間に合っていない。地下鉄が毎年1,2ライン出来ている状況でもだ。ほんの6年前ぐらいには北京には2本しか地下鉄がなかったが今は13本ほどある。オリンピックがあったとはいえ、信じられるだろうか、上海も僕が降り立ったときはわずか4号まで。今は未開通のものも含めて13号まである。

世界でこのスピードの発展は今までなかった。
改めてすごい時期にすごい都市にいるのだと感じている。
[2010/12/26 17:02] | 上海日誌 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
似顔絵とめがねと僕
似顔絵を描くとき、輪郭と顔のバランスを決めてから描くのが一般的に行われているパターン。もちろん僕も写実的な似顔絵の場合はこのやり方を使うときがあるけれど、通常は僕独自のやり方でやる。


 やり方はこうだ。似顔絵を書くときは、その人の一番の特徴を描くのだ。それは顔の輪郭の場合もあるし、鼻だったり唇だったりもする。その中でもっとも多いのは「目」だ。人はもちろん猫でも犬でも始めに目を見る。「目を見れば人がわかる」なんていうけれど、たしかに目が人の性質をもっとも表しているのだと思う。だから僕にとって似顔絵で目をどう描くかを最重要視している。目さえ似ていれば、全体も大体似るものだ。なんなら目だけ描いて終わりにしてもいいくらいだ。

 逆に言えば他の部分がどんなにそっくりでも、目がちょっとイメージと違うだけで似顔絵は破綻する。だから、その人の一番の特徴が目ではない場合、目は描くのを避けたいという気持ちがある。うまく描けないと思ったらデフォルメをして描くことから逃げる。目を点にしたり、ニコニコマークの山のような目にしてて実際に似せることから逃げる。

しかし、というか、だから 眼鏡をかけてくれている人を描くのはとても楽。目を描かなくてすむからだ。似顔絵師にとって、(もしもそんな職業があるのならばということだが)、似顔絵の一番の難所(特徴)を消してくれるなんて助かる。ありがとう。


 
しかし、めがね君。



考えてくれたまえ。



君のあだ名が「めがね君」であるように、
(もし「めがね君」だとすれば)



君の本当の顔は誰も見ていないんだよ。



もしも似顔絵師に言わせれば。
[2010/12/26 00:57] | 旅コラム | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
上海日誌77-「Merry Christmas」
 隣に座っている台湾人の女の子はお菓子が好きなので、常にお菓子を机の引き出しの中に入れている。チームのみんなもそのお菓子の恩恵にあずかっていたりするわけだ。

じゃぁ、ということで25日のクリスマスの日にその引き出しをお菓子でいっぱいにしてやろうという企画を思いつく。

 夜中に会社に戻って、買ってきたお菓子を引き出しに積め、用意した 「クリスマス スペシャル デスクトップ画面」を彼女のPCに設定。

さて、クリスマスの日に彼女は来た。


 僕らは今か今かとPCが開かれるのを待つ。


 「おおっ!」彼女を驚いて、PCの画面を指をさす。




↓用意したデスクトップ画面















merrychristmas_yu_desktop_s.jpg





※この似顔絵には自分自身は入れていません、あしからず。





「WOW!アイヤー!!」
*&*%(*$*%*B*@*\(台湾語)


僕らは知らないふり。


「デスクトップの左下には引き出しを開けてみな。」の文字。


引き出しを開けて、


感嘆の声。


Merry Christmas!!



喜んでくれてよかった。




人生にはもっと遊びが必要なのだ。
[2010/12/25 22:12] | 上海日誌 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学
旅をせざるは本を読まぬが如し、
本を読まぬは旅をせざるが如し。


これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学
マイケル・サンデル (著), Michael J. Sandel (著), 鬼澤 忍 (翻訳)


これは名著。読んで知識になるとか面白かったを超えて考え方の基盤を作ってくれる本というのは貴重な本だ。


この本の中では哲学とは正義とはなにかを多くの実在する事例を使って説明をしてくれている。彼は正義を考えるときには道徳的領域に入り込み、中立を保つ事は出来ないと結論づけている。多様な考えがある中、自分が何によって自分の正義を決定すべきか。その考えるヒントが書かれている。
是非読んでもらいたい。




書きたい事、考える事は山ほどある。




その中で一つ。
 日本が侵略戦争としての謝罪をしているかしていないか常に国際社会で論争になる。新聞に中国や韓国で暴動が起こったとあれば、日本のネット社会では「また謝罪を要求しているのかよー」といった文書があがる。
 謝罪をしたしていない以前に、戦後以降生まれた若者に戦争に関して一体何の責任があるのかという気持ちが日本の若い人は思う事はあるだろう。また、アメリカは無差別に空襲を行い、核爆弾を2度も使って置きながら正式な謝罪などしていないではないかと思うだろう。これをサンデルは「道徳的個人主義」と呼んでいる。



 中国でのことを考えてみたい、日本人が同胞にいかに非人道的な事を行ったのか骨の髄まで教えられているし、どんな人であってもそれを否定するようなことをもし聞いたりみたりすれば心の底から憤慨するだろう。今自分はどちらの側にもたっていない。事実であったろうし、その度合いの話など今焦点ではない。焦点は中国のコミュニティ全体が自分たちの歴史を持ち、共通見解が出来ていることだ。共通見解に異論を唱えても受け入れれるはずはなく、意味もない。それはコミュニティ全体の誇りとアイデンティティに関わる事だ。正しいも間違いの概念は損ざせず、そして決して交わる事もない。焦点は事実ではなく、コミュニティがもつ共通見解による所属者の「心」なのだ。




 それでも私たち(日本人限らず)はそれを尊重しなくてはならない。
パレスチナ人を圧迫して成り立つイスラエルの考え方は全く理解出来ない、私はユダヤ教の排他的な考え方など認めない。しかし、彼らには彼らの連帯がある。政治的な意図を超えた見解がある。


サルデルは事例を出している。
 アメリカに置ける奴隷制によって、社会的基盤を落としめられたアフリカンアメリカンの為の優先的入学事例が本の中で述べられている。これは平等的な観点から言えば努力して成績のよい白人が学校に入れないなど不公平ではないかという議論をおこすが、一方でお金もなく勉強をする事が難しかった黒人が多少点数が低くてもそれには大きな価値を持っていると考えるべきではないかといえる。


 ここで言いたいのは白人はたまたま過去に黒人を虐げていた歴史があるが故に、今現代の白人男性もその受益を受け取ってあるのであって、過去の奴隷制と巡られた自分に関係がないなど言い切れない。


サルデルはマッキンタイアの言葉を載せている。
”私の人生の物語はつねに私のアイデンティティの源であるコミュニティの物語の中にうめこまれているからだ。私は過去を持って生まれる。だかっら、個人主義の流儀で自己を過去から切り離そうとするのは自分の現在の関係を歪める事だ”


日本人もそうだ、戦争の謝罪を拒否するのであれば、今恩恵を受けている日本の発展も捨てるのが道理だ。つまり、現代の20歳の若者であっても大東亜戦争の歴史から逃れられない。だからこそ、歴史をしっかり学ばなくてはならない。そして歴史は勝手に作り上げられるものだから、自分で歩いて拾っていかなくてはならない。日本の歴史は自分の歴史なのだ。




 そして、その上で相手の意見を尊重して付き合っていくしかない。戦争のような表面的なものだけではなく、アイデンティティを育む文化の部分まで掘り下げてみていかなければならない。


 サルデルは道徳的観点から言えば同族を尊重する事も認められるとある。帰属は切り離せないものである、しかし、願わくばその連帯が日本人だけに向けられるものではなく、世界のどの人間に対しても向けられるものであってほしい。つまり、僕は世界の人々の帰属の概念がどんどんと広くなるように希望を持っている。



旅をしなくては。

[2010/12/24 00:10] | 日本 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
「なぜ日本の若者は自立出来ないか」「無縁社会」
書評メモ(雑記)

「なぜ日本の若者は自立出来ないか」岡田尊司と「無縁社会」NHK取材班を読む。この本の組み合わせで同日に読めたのが良かった。

“日本にコミュニケーションの苦手の人が増えたのは「発達障害」が増えたからではない。対人関係やコミュニケーションの訓練の場が不足している事が根本的な問題なのだ“
 日本の若者はコミュニケーションの訓練の機会を与えられず、貴重な時間が大量に画一的な5科目教育のために割かれている。どれだけ僕らは奪われ、喪失させられたのだろうか。僕らの世代が抱える不安感や疎外感を産みつけられてしまったとも言えるだろう。そして、それは今でも同じ教育によって子供の未来が奪われ続けている。

筆者は子供の特性を
(1) 視覚空間型
(2) 聴覚言語型
(3) 視覚言語
に分け、それぞれの適性に合った教育を施すべきであると論じている。独断的な部分も感じてしまう所もあるが、非常に分かりやすく書いてある。指摘に自分も当てはまる部分も多く、ギクリぎくり。

教育に関してもフィンランドや韓国など他国の事例を丁寧に解説している。

・大学まで入って何も学べていない
 オランダなどでは自立を促す教育が熱心に行われるとあるが、日本ではその自立心を育てる教育もない。なかった。一方で地域コミュニティの中で遊ぶような事も取り上げられた現代の子供達は違う世代に揉まれることもなく、自立も出来ない。世界のどこにも寄りどころがない心を持った子供達が生まれる。日本は伝統的社会が急速に崩壊し、それに変わる自立した個人主義が育たない国だ。子供達は社会スキルなしで外に放り出される。加えて大学偏差値偏重主義国家で、しかも大学を卒業したからといって世の中で必要なスキルなど何一つ学べていない。問題を発見して解決する能力や仲間と協力して進めていく能力も適正を見極める能力も何もかも。

・適切な職業量と学生の誘導が必要
 本の中で紹介されているドイツでは“中学の段階から大学進学コースであるギナジウム、職業教育コースの実科学校など4コースに別れる。(中略)ドイツでは専門職であるマイスター制度が残っており、マイスターになれば社会的地位も高く生活は安定しやすい。そして日本とは異なり、一つの職業ばかりに人材が集中し、せっかく技術を学んだのに職がないという事態にならないように一定の規制を行っている“日本では建築・土木業界が先細りなのにその学科をいまだに開設し続け、毎年1万人近い学生を卒業させている日本の大学というのは一体なんと効率が悪いのだろうか。生徒のためなのか学校存続のための教育なのか。国家としての戦略が全く感じられない。
 人間としての社会的スキルもなく育てられ、生活の基盤を作るはずの適正な職も技術も与えられず突然世の中に放り出される。放り出された先が待つのはこれまた同じように日本の教育を受けた日本人の集団だ。
これでは本当に多くの若者が自立出来ずに、心を壊すのは当然だと思う。

 「無縁社会」
「無縁社会」で書かれていることには誰にも遺体を引き取ってもらえない人は3万2000人にもなるという。法律的な用語では行旅死亡人という。かれらは孤独死ではあるがその後身元が分かっても遺骨を身寄りに引き取ってもらえない人が多いとのことだ。

 無縁社会は僕ら30代世代ならみんな感じていてもおかしくないのではないか。ほんの中でも述べられていたように、活動的な人間であっても、会社の中ではうまく機能していた人であっても無縁社会に陥ってしまうことがあるとの事例もしっかり描かれている。

 それだけではない、一緒に住んでいる人がいない時点でもその事態になる例も書かれている。僕だって車に敷かれて死んでしまったとしても3、4日は誰も気付かれないだろう。家で倒れたとしたらなおさらだ。僕らの世代が知らないユートピア化された昔の地縁に戻れるわけはない。
 心に刺さるなかなか重い本だった。

「無縁社会」の中では解答は出していない。その状況を出来るだけ正確に伝える姿勢を保っている。無縁社会はどこにでもあり、誰もが陥る怖さがある。

 しかし、無責任に言うのならば、もう少し能天気に考えてもいいと思うのだ。ツイッターでのつながりでもいい、現代なら現代での縁があるはず。それを大事に作って行けばいいではないかと思う。孤独死は一人だから孤独死になる。一人知り合えば自分も相手も二人助かるのだ。個人個人の事例は違っていて、物事は単純ではないけれど、明るい方に考えた方が気が楽だ。怖いのは手が差し伸べられないのではなくて、助けてともしくは人と関わろうという手を出せなくなったことの方が怖い

 手を自分から差し出せなくなった状況を作り出したのは日本社会だし、日本社会を作ったのは間違いなく日本の教育による部分が大きい。自分はその犠牲者だったなんて思いたくもないし、ましてや失われた僕らの世代には未来がないなんて考えたくもない。状況を打破するには自分で自分を育てるしかないじゃないかと思っているけれど、誰もが思い当たる部分あるんじゃないだろうか。
 日本の教育者&小さい子を持つ方には是非「なぜ日本の若者は自立出来ないのか」を読んで欲しいと思いました。

 駄文失礼。

テーマ:映画感想 - ジャンル:映画

[2010/12/14 11:57] | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
「ゼンリンの地図の作り方」
以前、お手伝いさせていただいていた街の駅前開発状況を見学へ。新しく作られた駅前のデッキの上になにやら腕章をつけた人が。

手には鉛筆と地図。一体何を調査しているのだろう。

気になったので声をかけてみた。

「何を調査されているんですか」

相手「地図を作っているんです」


ほう、よく見れば腕章にはゼンリンと書いてあるではないか!

よく見る地図【住宅地図のゼンリン】だ!

どうやってつくっているのだろう?

「この地図はどうやってつくっているんですか?」
相手「ある程度のいただいている資料はありますが、あとは目測ですね」

ん?

手書き?

測量せずに手書きのフリーハンド、、、それで出来ていたのか。。

へぇ、この手書きをCADで起こして、、ってわけですね。

そりゃぁ、測量図と比べると違いが出てくるわけだ。各自治体が作成している道路地図を基準として合成しているのだろうけれども手書きじゃね、、、ずれるでしょう。もちろんゼンリンは測量図と用途が違って一般的な使い方を想定している。普通の人が位置を判断するのに使う表札が地図に載っているなど状況把握にはいい。しかし、そのぶん国土地理院から出ている地図の方が正確になるはずだ。


ゼンリンの地図ってこう作られていたのか、なんだか新鮮な発見でした。

テーマ:好きな事なんでも! - ジャンル:サブカル

[2010/12/09 00:18] | 建築・都市コラム | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
上海日誌-77「上海エクスポ その後の上海」

上海エクスポが終わって、街は静かになった。打ち合わせの帰り道、エクスポにかかる打浦橋からガランとした巨大駐車場を見ると「終わったんだな」と実感した。街からは外国人が少なくなり、多くの友人も国に帰り、バーも何か静かになった。各国各町主催のパーティもなくなってタダ酒に預かれなくなり、タクシー運転手は客が減ったと嘆いていた。

 マスコットの海宝はまだ街のあちこちに残っているけれど、その笑顔が何かむなしい。
だんだんと汚れていく海宝を見るのは冬の風も相まって寂しい限り。


何か上海の街全体が燃え尽き症候群になった感じといえばいいのだろうか。


一方でエクスポが終わった瞬間に街が猥雑になった

次の日にはDVD屋さんは大手をふって路上でも販売し、偽者を売る業者もしつこくなった、あれよあれよとピンクなお店が町中に開店し、物乞いも増えた。今も文明城市を叫んでいるが、エクスポの時のきれいさがウソのようだ。特に老外灘の方を歩くとエクスポの会場が同じ街にあったなんて不思議に思う。


上海エクスポが終わって、12月からまた中国館がオープンした。しばらくしたらまた行ってみたい。エクスポの全体の再開発コンペや一部整備も始まっているだろう。今後どうなるのか楽しみだ。
上海はいったん立ち止まるように見えるかも知れない。けれど経済発展を象徴的に引き受ける上海はまだまだ動き続ける。


[2010/12/03 20:36] | 上海日誌 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
| ホーム |